2012年5月17日木曜日

碧き空は暮紅(くれない)に落ちる



 人々は再び、空を見上げることしか知らない。

 重力に捕らわれ、ただ見上げるしかない青い空。
 
 遥か天空に、巨大な雲があった。
 
 その雲は、どんな天候であろうとも形を変えず、どれほどの強風に吹かれようとも流されることはない。
 
 空を我が物顔で舞う鳥たちすら雲を覆う力場に阻まれ、雲の内部に入ることはできない。
 
 誰一人到達することのできないその内に存在するのは、一つの島だ。
 
 幾何学模様と、遠く滅んだ言語が刻まれた光の円環によって七重に囲まれた島は、その大部分を緑の木々に覆われているが、島の円周部には砂浜も見られる。

 砂浜の外には青い海が広がり、円環に触れる端の部分で滝のように流れ落ちていた。
 
 しかし、どれだけの水が流れ落ちても海の水位は全く変わらず、海に満ちる水は、どこからか無尽蔵に湧き出していた。
 
 大自然をそのまま切り取ったかのような、天空の島。
 
 その島にも一つだけ、明らかな人工物があった。
 
 島の中央。
 
 島が戴く王冠のような建築物。
 
 汚れ一つ無い純白の壁によって構成されるそれは、城だ。
 
 ちっぽけな、けれど、誰よりも高みに存在する島の王のための。
 
 天空から大地を見下す、絶対的な力持つ王のための。
 
 いや、王ではない。
 
 王とは人を支配し統治する者の称号だ。
 
 ならば、世界の事象の全てを支配する者を何と呼ぶのか?
 
 答えは一つ。
 
 その城こそ、今の世界を作り出した――神の住まう城。

【碧き空は暮紅くれないに落ちる】

 白亜の神の座。
 
 天空島の頂点たる城は、しかし、その内部は意外に普通だ。
 
 いわゆる『お城』のイメージとは遠く、むしろスケールの大きな一軒家というのがしっくり来るだろう。
 
 その城の一室、ここも普通の家にありそうな部屋だった。
 
 フローリングの床にカーペットが敷かれ、紙袋が載っているクリスタルのテーブルと柔らかそうなソファ。
 
 壁には薄いモニタのテレビがかけられていて、下界の様子が映っている。
 
 外に直接面する西の壁は全面がガラス張りの窓で、そこから島を見下ろすことができた。
 
 どこにでもありそうなリビングという印象だが、部屋の片隅に置かれた巨大な鏡だけが異彩を放っている。
 
 細かな装飾の刻まれた艶のある木製の枠に、オレンジ色をした風変わりな鏡面。
 
 それだけは、物語に出てくるお城に置いてありそうな品だった。
 
 部屋のソファに、一人の男の姿がある。
 
 歳は三十代前半くらいだろうか。
 
 黒い髪をオールバックに撫でつけ、白色のスーツに身を包んでいる。
 
 壁にかけられた時計がカチカチと音を刻む。
 
 男は、時計を気にしながら、何度も部屋のドアの方へと視線を向けていた。
 
 そのとき、ガチャリと音を立ててドアが開き、一人の少女が部屋の中に入ってくる。
 
 まだ幼い。十歳に届くかどうかという年頃だろう。
 
 背中の中ほどまで金色の髪を伸ばし、整った顔には翠玉の瞳。
 
 シンプルな白いワンピースに身を包んでいて、大きく開いた背中から透き通るような白い肌が見える。
 
 幼いながらも十分に美貌と呼べる要素を兼ね備え、どこか人形のような作り物めいた美しさを持っている少女だった。
 
 それに比べると、先の男性はどこにでもいそうなただの人間にしか見えない。
 
 だが、この城の中にいる、それだけでただの人間などではではない。
 
「来たわよ、神様。私に何か用かしら?」

 整った唇を開き、少女が年齢に不釣合いな口調で問いかける。
 
 『神様』と呼びながらも、男に払う敬意など持ち合わせていないようだ。
 
「あぁ、アル。来たか」

 男の方も、その扱いを特に気にする様子を見せず、にこやかに少女を迎え入れる。

「今日はお前にプレゼントがあってな」

 テーブルから紙袋を取り、アルと呼んだ少女に向けて投げる。
 
 アルは飛んで来たそれを受け取り、がさがさと袋の口を開いた。
 
 手の上に袋をひっくり返すと、色とりどりの細い紐が沢山出てくる。
 
「あら、リボン?」

「そうだ。気に入らなかったか?」

 男の言葉に、アルは首を横に振る。

「いいえ、ちょうど欲しかったのよ」

「そうか。良かった」

 安心したように笑みを浮かべる男。

「それじゃ、貰っていくわね」
 
 アルは、プレゼントを貰うのが当然であるかのように礼も言わないで背を向けた。
 
 小さな背中がドアを潜って外に出て行き、閉じられたドアが音を立てて閉まる。
 
 軽い足音が遠ざかって聞こえなくなるのを確認して、男はソファの背もたれに身を預けた。
 
 右手で目を覆い、深く息を吐く。
 
 手の下に見えている唇が歪み、噛み締めた歯がギリと音を立てた。
 
「くそ……どうして俺が、あんな奴に気を使わなければならんのだ……っ」
 
 アルに対して浮かべていた笑顔は、もう欠片も残っていない。
 
 男は苛立ちを露に、ソファから身を起こす勢いで手を振り下ろした。
 
 大きな音を立ててクリスタルのテーブルが砕け散り、破片に引き裂かれた腕を血が伝う。
 
 血がカーペットに滴り落ち、布に赤い染みをつけていった。
 
 そのとき、ドアを控えめに叩く小さな音が響く。
 
「パパ? 大きな音がしたけど、どうしたの?」
 
 ドアの向こうから、可愛らしい声が聞こえる。
 
「ま、マホ!? ちょっと待て!」
 
 男は慌てた声を出すと、自分が壊した物へと目を向けた。
 
 すると、壊れたテーブルや汚れた絨毯がかき消すように消えてしまう
 
 そして、次の瞬間には壊れたり汚れたりする前の家具がそこに現れていた。
 
 男の腕についていた傷も、跡形も無く消えている。
 
「よし、もう良いぞ」

 満足げに頷いて男がそう言うと、ドアが開いて一人の少女が姿を見せた。
 
 年齢はアルよりもいくらか幼い。
 
 ショートボブの黒髪と、黒い瞳の少女だ。
 
 アルのような美貌は持っていないが、年相応の可愛らしさという点では彼女に軍配が上がる。
 
「パパっ!」

 とてとて、という擬音の似合いそうな足取りで男に駆け寄り、空色のワンピースの裾を揺らしながら勢いよく飛びつく。
 
 相好を崩した男はマホの体を受け止め、そのまま自分の膝の上に乗せる。
 
 マホは膝の上でもぞもぞと動いて座り易い位置を見つけ、父の顔を見上げる。
 
「パパ、パパ。おっきい音がしてたけど、大丈夫?」

「あぁ、大丈夫だ。ちょっと机にぶつかっただけだからな」
 
「そうなの? 痛くない?」

「痛くない痛くない。マホは優しいな」

 穏やかな笑みを浮かべた男が優しい手つきでマホの頭を撫でる。
 
 今になって比べるてみるとわかるが、アルに向けていた笑顔とは随分と違う。
 
 その笑顔に比べると随分と自然な表情だった。

 明らかに、アルへの態度が取り繕ったものだとわかる。

「ねぇ、パパー」

 くすぐったそうに目を細めて、マホが男に甘える。

「どうした?」

「まほね、お絵かきしたい!」

「お絵かきか、あぁ、いいぞ。マホは本当にお絵かきが好きだな」

 即決で男が了承する。
 
 マホの言うことなら何でも聞いてしまいそうな、そんな勢いだった。

「やったぁ! それじゃあ、お絵かきの道具取ってくるね!」

 そう言って膝の上から下りようとするマホを、男は「待った」と言って止める。

「取りに行かなくてもいい。俺が用意してやる」

「ほんと?」

 首を傾げて聞くマホに頷き返し、男はパチンと指を鳴らした。
 
 その瞬間、テーブルの上にスケッチブックと箱入りのクレヨンが現れる。
 
 何も無いところから、突然に。
 
 それは、イメージによって無から有を創り出す神の業。

 この世界でたった一人が持つ――それを持つからこその神。
 
 男を神とする想造の力。

「わぁ、パパすごーいっ」

 はしゃいだマホが男の膝の上から飛び降り、テーブルからスケッチブックとクレヨンを取る。
 
 そして、それを一度ソファに置いてから「んー、よいしょっ」と可愛らしい掛け声を上げながら男の膝の上によじ登った。
 
 膝に座り直してからスケッチブックを手に取り、真新しいページを開く。

「何を描くんだ?」

「えっとねぇ――」

 男に聞かれたマホはきょろきょろと部屋を見回し、
 
「じゃあ、お外!」

 窓から外を指差しながらそう答えた。

 城から少し離れた森。
 
 多種多様な木々が、青々とした葉に覆われた枝を複雑に絡め合っている。
 
 しかし、森の中は少しも暗くない。
 
 空を覆う白い雲が放つ光は、重なり合った葉に遮られることなく、森の中を明るく照らし出す。
 
 十分な光を浴びた地面には短草が生い茂り、様々な花が若草色の上を彩っていた。
 
 その天然の絨毯の上に、一人の少女が立っている。
 
 年齢は十代の後半辺りだろうか。
 
 伸ばし放題の黒い髪は膝下まで届き、片側に寄せた前髪が顔の右半分を隠していた。
 
 見えている左目は色素の薄い灰白色。
 
 白い一枚の布を、服のように体に巻きつけているだけの格好だった。
 
 少女は木製のイーゼルに立てたカンバスに向かい、木炭を持った手を真剣な顔で動かしている。

 灰色がかった布に黒い線で描かれているのは、その位置から見える風景だ。
 
 まだ途中なのか、描かれている風景は大まかな輪郭だけだった。
 
 バサ――

 カンバスに向かう少女の耳が、小さな羽ばたきの音を捉えた。

「あれ? 鳥かな?」
 
 木炭を持った手を止めて、そう少女が呟いたとき、
 
「アーーーズっ」

「きゃっ」

 大きな声を発しながら、小さな影が少女の背中に飛びついた。
 
 少女はその勢いに押されて、二人一緒に地面に倒れる。

 イーゼルを避け、柔らかな草の上に倒れると、飛びついてきた影が少女の上から下りて立ち上がる。

 少女はころりと転がって仰向けになり、「もう、危ないでしょ。アル」と唇を尖らせた。
 
「ふふ、ごめんなさい、アズ」
 
 飛びついた少女――アルは悪びれない態度で笑みを浮かべ、絵を描いていた少女――アズに手を差し出した。
 
 アズはそれに応えて手を伸ばし、一瞬、虚空を彷徨った手をアルが捕まえて引っ張り上げる。
 
 小さなアルが、優に頭一つは高いアズを引き上げると言うのは奇妙な光景だが、
 
 その細腕にどれだけの力があるのか、アルはさしたる苦労も見せずにアズを立ち上がらせた。
 
「ありがとう、アル」

「ええ、どういたしまして」


1944年9月22日何が起こったのか?

 自分で転ばせたくせに、尊大な態度でお礼に返したアルは、地面に屈んで木炭を探し始めた。

 その間に、アズはイーゼルからカンバスを下ろし、それを抱えて地面に座った。

 膝を揃えて横に倒して座り込み、太股の上にカンバスを立てる。
 
 そこに、木炭を見つけたアルが近づき、アズと体を触れ合わせて地面に両膝をついた。
 
 アズの右肩にアルの左胸が当たるような形になる。
 
「それじゃあ、始めましょうか」

 木炭を持った右手で、アズの右手に触れる。
 
 挨拶のような余計な会話は必要ない。
 
 アルが、偶然、絵を描いていたアズに出会ってから、二人で一緒にすることは同じなのだから。

「うん、始めようか」

 頷いたアズがアルの手から木炭を取る。
 
「教えて、アル。アルの世界を」

「ええ」

 アルは木炭の無くなった手で、アズの手を、甲の側から包むように握る。
 
 左腕をアズの体に回してバランスを取りながら、身を乗り出して重ねた手をカンバスに近づける。
 
 二人の頬と頬が触れあい、吐息と共に甘さを錯覚するような香りが混ざり合った。
 
「私の目に見える世界は――」

 アルの手がアズの手を導き、輪郭だけが取られた絵に触れる。
 
 ただ重ねているだけの手が、まるで一本の手のように滑らかに動き、次々に黒い線が引かれてゆく。
 
 アルだけが描いているのではない。
 
 アズだけが描いているのでもない。
 
 アルの見た世界を、アズが彼女の技術で写し取る。
 
 木々に枝葉が生まれ、花弁に蝶たちが舞い――
 
 まるで、二人の心が一体になったかように、絵の中に世界が作り出されていく。

 言葉は無く、重ねた手と体から伝わるものだけを会話にして。
 
 風が生み出す葉擦れの音と鳥の歌に包まれ、二人は絵を描き続けた。

「できたぁ!」

 スケッチブックを高く掲げて、マホが声を上げる。
 
 白い紙一杯に、窓で長方形に切り取られた風景が写されていた。
 
 緑の森、薄い黄色の砂浜、水色の川に青い海、そして、白い空。
 
 それらが、子供らしい稚拙な技巧だが、のびのびと描かれていた。
 
「お、上手だぞ。マホ」

「えへへー。ねぇねぇ、パパの絵は?」

 頭を撫でられ、嬉しそうな顔でマホが男へと振り返る。
 
「あぁ。もう出来てる」

 男はそう言い、ソファの上に裏返しに置いてあった画用紙をひっくり返してマホに渡した。
 
 マホは、それを一目見るなり感嘆の声を上げる。
 
「わぁ、凄い!」

「そうか? このくらい、別に普通だ」

 男はそう言うが、実際、全くその通りだった。
 
 男が描いた絵は、下手ではないが特別上手でもない。

 もちろん、マホよりは上手いのだが、それは大人と子供の当然の差。
 
 大人が普通に描けばこのくらいになるだろうという、そんな絵だった。
 
 だが、子供にとっては十分に上手に見えるらしく、マホはしきりに感心しているようで「すごいすごい」と繰り返している。

「あれ?」

 絵を眺めていたマホが、不思議そうに父親の顔を見上げる。
 
「パパ、これ、変だよ? お空が海の色になってるし、それに、変な赤い丸がある」

「ん、あぁ――」

 紙に目を向けた男は、一瞬不思議そうな顔になったが、すぐに納得したように頷いた。

「いかんな。昔の癖だ」

「むかし?」

 鸚鵡返しに首を傾げるマホに、男は頷き、
 
「そう、昔だ……。俺がまだ――いや、今はもう関係ない話だ……」

「パパ?」

 どこか、遠くを見るような瞳になる男を、不安そうにマホが見上げる。

 その声に、男ははっとなってマホへと視線を向けた。
 
 「何でもない」と笑みを浮かべると、マホも安心したように笑う。

 男は、マホから窓の外に目を移し、一面が雲に覆われた空を眺める。

「マホ、本当の空は青いんだ。そして、そこは太陽があるんだぞ」

「青いの!? この丸いのが太陽?」

「そうだ」

「こんなのが、お空に――!」

 マホは男の膝から飛び降りると、小走りに窓へと向かった。
 
 ガラスに手と顔をぴったりくっつけて空を見上げる。

 だが、空はその全てが白一色に染まり、他のどんな色も見つけることはできない。
 
「パパぁ、青くないよ……まほも見てみたいのに……」

「はは、だから昔の話だ。でもな、マホ。お前だって昔の空を見たことがあるんだぞ」

「え、まほも?」

 ガラスから顔を離して、きょとんとした顔で振り返る。

「うーん、うーん? まほ、知らないよ?」

「知らない!? まさか!」

 まほの言葉に、男は驚きの声を上げた。
 
 その顔は、驚愕に染まっている。

「そんなわけない、一緒に見ただろ?」

「えっと、んーとぉ……」

 どこか縋るように、必死にマホに聞く男。
 
 マホは、唸りながら必死に考えるが、何も思い出せない。
 
「パパ、ごめんね。まほ、覚えてない」

「……そうか、いや、気にするな。多分、俺の勘違いなんだ」

 申し訳なさそうに謝るマホに、男は笑顔を浮かべて言った。
 
 だが、その笑顔は引きつっていて、アルに向けたそれ以上に作り物めいているように見えた。

 森の中、アルとアズは描き上がった下絵に色を塗っていた。
 
 神である男のような力を持たない二人には絵の具を手に入れる方法などなく、植物や鉱石などの自然から得たものを使っている。

 木で作った器に入れたそれらを、柔らかい木から作った筆で塗っていくのだ。

「ねぇ、アズ。空はどうやって塗るつもり? 白は見つけられなかったんでしょ?」

「うん、そうだよ。だからね、これで塗るの」

「これって……赤?」

 アズがアル見せたのは、木の根から作った赤い色だった。

 二人は知らないが、その植物の名前はアカネ。

 そこから取った色が、いわゆる茜色だ。

「赤は赤だけど、少し違うよね。これはね、夕焼けの色」

「ゆうやけ……って何なの?」

「夕焼けはね、夕方の空の色。太陽が沈むとき、空を赤く染めるんだよ」

「 空を赤く? 太陽?」

 次々に出てくる知らない言葉に、空を見上げながらアルが首を捻る。
 
 アズは、一緒に空を見上げながら言葉を続けた。
 
「太陽って言うのは、世界を照らしてくれる光の星のこと。
 この世界は、十二時間毎に雲のスイッチが代わって昼と夜が来るよね。
 でも、本当は、太陽っていう星が空の色を変えながら世界を照らすの」
 
「空の色が……。
 ねぇアズ。あなた、どうしてそんなことを知っているの?」
 
「え……」
 
 アルがそう聞いたとき、アズは今にも泣き出しそうな、そんな悲しい表情を浮かべた。

 だが、それはすぐに、彼女が浮かべた微笑に隠される。

 どこか寂しげに微笑みながら、過ぎ去った時を回顧してアズは言った。
 
「パパに、教えてもらったんだよ。
 空のこと、太陽のこと。この小さな世界の向こうにある、大きな世界のこと」

「大きな、世界?」

「あの雲はね、外から何も通さない代わりに、中からも何も通さない壁。
 だから、あそこがこの世界の涯て。
 でもね、その向こうにはもっと大きな空があるの。
 私は、そこに行きたい。そしてね――」

 アズは一度言葉を切り、アルへ顔を向けた。
 
 アルが手を伸ばし、そっとアズの頬に触れ、真っ直ぐに視線を合わせる。
 
 そして、アズはその夢を語る。
 
「私は、青い空が見てみたいの」

「大きな世界……青い空……」

 アルは、想像したこともなかったその世界を想像しようとしたが、上手くいかなかった。
 
 ここ小さな世界だと言うが、アルはそれに不満はなかった。
 
 神はどんなものでも作り出せるし、アルを甘やかしてくれる。
 
 十分すぎるほどの生活水準だ。
 
 けれど――
 
「アズがそう言うんだったら、私も見てみてたいわね」

「ほんと?」

「ええ。いつか一緒に、見に行きましょう」

「うん。絶対に。約束だよ」

 二人は言葉を交わし、どちらともなく差し出した小指を絡ませた。
 
 約束の儀式。
 
「ええ、約束」

 絡み合った小指が一度解け、アズが探るような指使いで伸ばした指がアルの手を引き寄せる。
 
 二人の手は、五指を広げて互いの手を撫で、やがて、全ての指が絡み合った。

 壁掛け時計の短針がⅣを指す。
 
 そろそろ夕方と言われる時間だが、オンとオフの二つの光しか存在しない雲光にはわずかの翳りもない。
 
 朝や昼と全く同じ光が差し込む部屋で、男は唯一の夕暮れの色に向かい合っていた、
 
 部屋の中に置かれた大きな鏡。
 
 オレンジ色の鏡面には、男の姿だけが映っている。
 
 マホの姿はなく、テーブルの上に数枚の絵が散らばっている。
 
「ノル、ノル教えてくれ」
 
 男は鏡に向かい、まるで鏡の中の自分に話しかけるように口を開いた。

「今日の夕食はハンバーグにしようと思うんだが、どうだ?」

 鏡に向かって夕食のメニューを聞く男。
 
 物凄く奇妙な光景なのだが、鏡に映っている男の顔は至って真剣だった。
 
 そのとき、鏡に映る男の顔がぐにゃりと歪んだ。
 
 鏡の中心から、水面に物を落としたときのような波紋が広がる。
 
 波紋が広がるのにしたがって少しずつ鏡の色が薄くなっていき、普通の鏡と同じような銀色になるのと同時に波紋が収まった。
 
 静かになった鏡面には、もう男の姿は映っていない。
 
 そこに映っているのは、全く別の場所だった。
 
 フローリングの床の上に木製のテーブルが置かれ、セットの椅子の横に、アルが立っている。
 
 アルは、テーブルの上に載っている湯気を上げる料理を見下ろしていた。
 
 メインは、デミグラスソースのかかったハンバーグ。
 
 同じ皿に、付け合せのにんじんとポテトが添えてある。
 
 ハンバーグの横にはスープとサラダ、それに、籠に入ったバゲットが並べてあった。
 
 美味しそうに見えるのだが、それを見たアルは不満そうな声を出す。
 
『またお肉? 昨日もそうだったじゃない。私、今日は魚がよかったわ』

 そこまで映したところで、先ほどの逆再生のように鏡の縁から中心へと波が起こる。
 
 波が通り過ぎると、鏡は元の色に戻り、男の姿を映し出していた。
 
「なるほど、魚か」

 頷き、男は鏡の前から身を翻す。
 
 部屋の中を横切ってドアに向かいながら、にやりと口元を歪めた。
 
 恐れる必要など無い。
 
 彼女がどれだけの力を持っていようと、それを向けられなければ何の問題もないのだ。
 
「そう、上手く料理してやるさ」
 
 一人頷き、ドアから外に出る。
 
「あ、パパ。お仕事おわったの?」


ペルーの人々のレース今日は何である

 対面の壁にもたれていた絵を描いていたマホが背中を離し、男に駆け寄る。
 
 どうやら、そこで男を待っていたようだ。

「あぁ、終わった。台所へ行くぞ」

「うんっ」

 ちょこまかと、マホを足にまとわりつかせながら、男は廊下を歩き始める。
 
 廊下を歩きながら、マホはスケッチブックを開いて男へと差し出した。
 
「ねぇパパ、見て見て」

「新しい絵か? どれ――」

 あどけない笑顔と一緒に差し出された絵を受け取り、一目見た瞬間。
 
 男は、凍りついたように歩みを止めた。
 
 その絵は、景色を描いたものだった。
 
 だが、男と一緒に描いていた絵とは違い、想像で描いた風景のようだ。
 
 濃い青色で塗りつぶされた空に真っ赤な太陽が浮かび、その下には一面の向日葵畑。
 
 大きな黄色の花の合間に、手を繋いだ親子の姿が描いてある。
 
 特におかしなところは無い、ごく普通の絵だ。
 
 空の色が少し濃すぎるが、空を見たことがないから仕方ないだろう。
 
 だが、男はその絵を、何か信じられないものでも描かれているように凝視している。
 
「パパ?」
 
 父親の沈黙に、マホが男の顔へと不安そうな顔を向ける。
 
 視線を受けた男は、逡巡しながら口を開く。
 
「……マホ、お前、向日葵は嫌いなんじゃなかったのか?」

「え、ひまわり?」

 理由はわからないが、怒らせたのかもしれないと心配していたマホは、予想外な言葉に目を瞬いた。
 
 だがすぐに、何だそんなことだったのか、とふんわりと表情を緩める。
 
「んとね、前は食べられちゃいそうな気がしたからこわかったけど、今はもう大丈夫だよ」

 胸を張って、自身の成長を誇るように言う。
 
 だが、それに男が返したのは、
 
「……そうか」

 という、言葉。

 それはぞっとするほど冷たく暗い感情の込められた声で紡がれていたが、無邪気に父に語るマホは、その言葉の温度に気づかなかった。

「あのね、ひまわりのおっきなお花を見てるとね、まほも元気になるんだよ!」
 
 元気よく続けられる言葉を、男はもう聞いていない。
 
 顔を伏せ、食いしばった口元から「やっぱりお前は――」と声が落ち、白く明るい廊下に寒々しく響いた。

 白亜の城の正面には、誰が見るための物なのかわからないが、大きな時計が取り付けられている。
 
 時計の針は短針がⅤとⅥの間、長針は真下を向いている。

 その時計の下に、森から帰ってきたアルの姿があった。

「もうすぐ、よるが来るわね」

 アルはそう呟き、時計に向けていた視線を正面に戻した。
 
 歩みを進めて城の中に入ると、そこでスケッチブックを抱えた少女に鉢合わせた。

 ぶつかりそうになって、慌てて立ち止まる。

「ひゃっ」

「あっ、と、ごめんなさい。ただいま、マホ」

「え?」

 帰宅の挨拶をしたアルに、マホは小さな驚きの声を上げた。
 
 その顔が驚きから不審に変わり、持ち上げたスケッチブックで顔の下半分を隠してしまう。
 
 スケッチブックの上から目だけを覗かせて、アルの様子を窺う。
 
「えと……だぁれ?」

「誰って、あぁ、そう。そうだったわね」

 アルはマホの態度に首を捻るが、すぐに納得したように頷いた。
 
「初めまして、マホ。私はアル」

 名前を名乗り、アルは唇の端を持ち上げる。
 
 吊り上がった唇が、あからさまに嘲笑を浮かべた。
 
「神様――あなたのお父様の人形よ」

「おにんぎょう? でも、おねえちゃんはしゃべってるよ」

「そうね。でも、そういう人形もあるのよ」

「ほんと? すごい!」

「えぇ、大したものね。その力――は」

 含みを持たせた言葉を発した唇は、嘲りの形に歪んだまま。
 
 彼女は一体、何にその表情を向けているのだろうか。
 
「それで、マホ。お父様はどこにいるの?」

「えっと、わかんない。さっきおそとにいっちゃった」

「外? 珍しいわね」

 六時が来て、空が夜に代わると、夕食の時間だ。
 
 食事も一瞬で作り出せはするが、だからと言ってこんな時間に家を空けたことは無かった。
 
「どこへ行ったか知ってるかしら?」

「それもわからないけど……あ、もりにまだ、かたほがっていってたかな?」

 意味もよくわからないまま、父の言ったことを繰り返すマホ。

 それを聞いた瞬間、アルの表情がはっきりと変わった。
 
 表情から余裕が消え去り、焦りだけに支配される。

「え、森にカタホ!? 本当に、本当にそう言ったの?」

「う、うん」

 色を失くしたアルに肩を掴まれ、揺さぶられながら必死にマホが頷く。
 
「――っ! いけない!」

 言うが早いか、アルは踵を返し、城から走り出ていく。
 
「な、なんだったんだろ?」

 一人残されたマホは、ぽかんとした表情でそう呟いた。
 
 
 
 
 
 時は少し遡り、時計の短針がⅤの文字を示す頃。
 
 ずるずると、片手で何かを引きずりながら、男が部屋に入ってきた。
 
 半分閉じられた目は、どこにも焦点を結ばず、虚ろな無表情でドアを閉める。
 
 ずるずる――
 
 引きずりながら向かったのは、部屋の隅に置かれた大きな鏡。
 
「ノル、見せてくれ。俺とアルの未来を」

 感情の抜け落ちた声で鏡に聞く男。
 
 全能たる男には、二つだけ、恐ろしいことがあった。
 
 その一つが、あの幼き少女。

 こうして、鏡にその未来を問うのは、百年を越える日々の日課だった。
 
 もう、その行動は自動的だと言ってもいい。
 
 鏡の中央から波紋が広がり、銀色の鏡面に、その未来を映し出す。
 
 白く美しく、広がる翼。
 
 舞い散った羽根が赤い液体に濡れ、重たげに地に落ちる。
 
 床一面の血溜まり。
 
 そこに倒れているのは――自分だ。
 
「なぜだ……?」

 呟いた言葉に、幾ばくかの感情が戻る。
 
 この鏡に従って、アルが不快に思う未来は全て変えてきた。
 
 どんな望みにも先回りしてそれをかなえてやった。
 
 何一つ、不満になど思わせなかったはずなのに、なぜ。
 
 鏡の中で、血の海に沈む男を見ながらアルが口を開く。
 
『私は青い空を見に行くのよ。その邪魔をするから』

「青い空、だと? なぜ、アルがそれを知っている?」

 男の口が発した疑問の言葉。
 
 それを拾い上げたノルの映像が揺らぎ、未来を映していた鏡が、今度は時を遡る。
 
『お父さんに、教えてもらったんだよ。
 空のこと、太陽のこと。この小さな世界の向こうにある、大きな世界のこと』

『大きな、世界?』

『あの雲はね、外から何も通さない代わりに、中からも何も通さない壁。
 だから、あそこがこの世界の涯て。
 でもね、その向こうにはもっと大きな空があるの。
 私は、そこに行きたい。そしてね――私は、青い空が見てみたいの』

『大きな世界……青い空……アズがそう言うんだったら、私も見てみてたいわね』

 森の中で語り合う二人の少女。
 
 一人はアル。
 
 そして、もう一人は――
 
「こいつ、は……っ」

 もう一人を目にした瞬間、男の顔にはっきりと感情が浮かぶ。
 
 それは、怒り。
 
「まさか、カタホが……生きて」

 時が流れて、依然とは見た目が変わっている。
 
 だが、その顔を見間違えはしない。
 
「カタホ――あの出来損ないが、まだ、また!
 未完成品が、俺の邪魔をするか! 今度こそ、壊してやる!」

 憤怒の形相でそう吐き捨てると、男はまた、ずるずると引きずりながら部屋を出て行く。
 
 過去を移しながらその背中を見送っていたノルは、その最後の言葉を拾い上げた。
 
 鏡面に波紋が走り、新しい映像が映し出される。
 
 男が、カタホと呼んだ少女を壊した場合の、未来。
 
 映し出された場所は、この城で最も城らしい場所。
 
 城の最上階に位置する、石造りの一室。
 
 大理石の柱が立ち並び、背の高い王座をステンドグラスが見下ろす。

 王座の傍に立つのは男。

 相対するのはアル。

 翡翠の瞳に、鋭利な光を宿して、口を開く。
 
『私たち、上手くやっていけると思ってた。けど、もうお終いね』

 一つの悪い未来を回避したとして、その別の未来が良いものだとは限らない。
 
 そんな単純なことにさえ、男は気づけなかった。

 赤、青、黄、緑、紫――カラフルな何本ものリボン。
 
 アズは、草の上に並べたそれを、端から順に撫でていた。
 
 そのリボンは、帰り際にアルが置いていったものだ。
 
 以前、ちょっとした雑談でリボンが欲しいと言ったのを覚えていたらしい。
 
「アルに付けてあげたかったから欲しいって言ったんだけどね」

 そこの部分は伝わっていなかったようである。
 
 アズは赤いリボンを手に取り、天上から降ってくる光にかざした。
 
「赤。似合うかな?」

 アルの金髪の色を思い出し、そこにリボンの赤色を合わせてみる。
 
 どうもしっくりこなかったらしく、軽く首を振った。
 
「やっぱり緑? 青も良いかな?」

「楽しそうだな」

 楽しげに、リボンを眺めるアズ。
 
 その背中に、冷たい声がかけられた。
 
 弾かれるようにアズが振り返る。

 立っていたのはかみ、その手には――

「――パパっ!?」
 
「探したぞ、カタホ」
 
 振り向いたアズが飛び退くのと、銀光が走るのが同時。
 
 男が持っていたシンプルな片手剣が、青のリボンを切り裂く。
 
「ちゃんと、処分しないとなぁっ」
 
「――っ」
 
 振り上げられる剣から、身を翻して逃げ出す。
 
 森の木々の中に逃げ込み――一本の立ち木を避けられずに激突する。
 
「あっ」
 
 草を踏む音。
 
 アズが振り返る。
 
 男が無造作に投擲した剣は、糸で結ばれているかのように、一直線にアズの胸の中心に突き刺さった。
 
 背後の木に縫い止められ、衝撃で開いた口から血の玉が飛び散る。
 
 昆虫標本のごとき姿になったアズに男が歩み寄り、剣の柄を掴む。
 
 アズは、男の手を掴もうとして手を伸ばしたが、その手は見当違いの空を掴んだ。
 
「なるほど。そんな目でまぁ、生き汚いことだ」
 
 灰白色の目を覗きながら、男は掴んだ柄に力を込める。

 左右に抉られた傷口が広がり、噴水のように血が吹き出る。
 
「あああぁぁぁあああぁあっ」

 苦痛の声を上げるアズ。
 
 その声に応えるように、木々の向こうから声が返る。
 
「アズ!?」

「アルか! ちっ」


フェアフィールドのブリッジウォーターフォールズジョブopprotunities

 男は、声を聞くなり、舌打ちして剣から手を離し、素早く駆け去って行く。
 
 そして、それと入れ替わるように、アルが飛び込んできた。
 
「アズ!」

 木に縫い付けられたアズを見て、悲鳴のような声で名前を呼ぶ。
 
「待ってて、すぐに下ろしてあげるから!」

 アズへと駆け寄るアルの瞳に、凶暴な赤光が宿る。
 
 男が置き去りにしていった剣に、アルの手が触れた瞬間、剣は霞のように掻き消えた。
 
 崩れ落ちてきたアズの体を受け止めて草の上に寝かせ、その傍に屈み込む。
 
 胸に開いた穴からは止め処なく血が溢れ、地面があっという間に色を変えてしまう。
 
 もう死んでいるかもしれない、そんな思いが頭の隅を過ぎり、アルはそれを振り払うように声を上げた。
 
「アズ! ねぇアズ! しっかりして!」

「……ぅ……ア、ル?」

 アルの必死な呼びかけを聞いて、アズが薄っすらと目を開ける。
 
「アル……けほっ、そこに……いるの?」

 血の泡が混ざった声を出して、アズが震える手を伸ばした。
 
 アルはその手を取り、自分の胸元に抱え込む。
 
「ええ、いるわ。アズ、私はここにいるわよ!」

「あは……ほんとだ……あったかい……」

 そう言うアズの手から伝わる温度は冷たい。
 
 紙のように白くなった手の冷たさが、アルに受け入れ難い現実を突きつけてくる。
 
「アズ、しっかり!」

「ねぇ、アル……私……空が見たい……」

 アルの声に答えず、アズは掠れた声で訴えかけた。

「アズ?」

「青い……空が……」

「……わかったわ」

 アズに頷き、アルは立ち上がった。

 アルの瞳に再び赤い光が宿る。
 
「見せてあげるわ、アズ。私の力で!」

 大きく両手を広げるアル。
 
 その背中に光が集い、翼の形を作り出す。
 
 そして、アルは広げた両手を空へと向けた。
 
 天へ伸ばした手から一条の光が放たれ、剣の如くに白雲に突き刺さる。

「切り裂きなさい!」

 雲に突き刺さった光が二方向に別れ、一直線に切り拓く。
 
 光に裂かれた部分から雲は左右に分かれ、そして、その向こうに新しい色彩が現れた。
 
 そこに現れた色は、黒に近い青。
 
 暮れ行く太陽の光は、通常の雲よりも遥かに高みに存在する天空島までは届かず、夕時の赤は見えない。
 
「これが、本当の空? 何て広い――」
 
 空を見上げたアルは、その色よりもその広がりに目を奪われた。
 
 満天の星たちが輝く空はどこまでも広く、雲に遮られていた空が、急に狭苦しく感じた。
 
 だが今は、そんなことを感じている場合ではない。
 
 アルは、アズの隣に膝をついて、彼女に呼びかける。
 
「アズ、見て。空よ、青い空」
 
「……うん、見えてるよ。……初めて見た……空」
 
 寄り添い合いながら、二人は空を見上げる。
 
「ねぇ、アル……ちゃんと、見えてる?」
 
「ええ、見えてる……」

「良かった――」

 そう言って、アズは長い息を吐いた。

「約束……ちゃんと、守れたよね……。
 一緒に…………青い空を……見たよね?」

「何言ってるのよ、アズ。ねぇアズ!」

 途切れ途切れの言葉。
 
 言葉が一つ紡がれるたびに、アズの体から命が抜け落ちていくのがわかる。
 
 もう、いつ命が失われてもおかしくない状態で、アズは、二人の約束を果たそうとしていた。
 
「何でそんなこと、アズっ」

 アルは、アズの上体を抱き起こし、その体を抱きしめた。

 瞳から零れ落ちた涙の雫が、アズの頬の上で弾ける。
 
「まだだから! まだ死んだらダメよ! 空なんて見てないでしょ!?」

「うそだよ……広いって、言ったのに……」

「私じゃない、アズよ! アズなんて、目が見えてないんだから、まだ見てないのよ!
 だから、まだ約束は、終わってなんか!」

「……ううん……見えたよ」

 アルの言葉に、アズはゆっくり首を振った。
 
 その動作にももう力が無く、ほとんど動いているように見えない。
 
「だって……物は、ぼんやりしか見えないけど…………。色だけは、ちゃんと……見えるから」

 アズは、頭を逸らして空へと瞳を向けた。
 
「少し暗めの青色――蒼……あってる、よね」

「それは――」

 アルは言葉に詰まる。
 
 わかっているのだ。
 
 約束が守られていないと、そんな嘘を吐いたところでもう、アズの命を繋げないと言うことは。
 
 それなら、せめて、約束だけは叶えてあげたい。
 
「えぇ、そうよ。あってるわ、アズ。あってる!」

 何とか搾り出した言葉に、アズはふっと笑い、

「そっか……よかった。
 ……ありがとう、アル……。
 アルは……あの空に――未来に……生きて……」

 そして、アズの体から力が抜けた。
 
 背中を支えるアルの手にかかるアズの重さが、ぐっと重くなる。

「アズ? 嫌よ。ねぇ……返事をしてよ、アズ――アズール!」

 必死に呼びかけて、顔を覗きこむ。
 
 けれど、見開かれたままの彼女の瞳は、もうアルを捕らえられない。
 
 もう、認めるしかなかった。
 
 青空(AZURE)を名乗った少女は、蒼穹の空の下で逝ってしまったのだと。
 
「アズ……」

 光を失った灰白色の瞳は、夜に近づく空を焼き付けていて。

 深い蒼を秘めた黒に染まった瞳を、そっと。
 
「……おやすみなさい、アズ。安らかに」

 アルの手が、そっと、紺碧のひとみを閉ざす。

 その瞬間、夜の帳が天空島を覆い、全てを闇の中へと包み込んだ。

 城の頂点に位置する一室。
 
 壁や床は石で作られ、天井近くには美しいステンドグラスがはまっている。
 
 天井を支える白い大理石が立ち並ぶその先には豪奢な王座。
 
 高い背もたれを持つ、座り心地の良さそうな赤い椅子に座るのは、人ではなく、一つの機械。
 
 それは、ガラスのように透明な真球が収められた、両手で抱えられるほどの小さな箱。
 
 刻々と色を変える、何か粘性を感じさせる光の入った球から箱の内壁にコードが延び、幾何学模様の光が壁面を走っている。
 
 その小さな装置こそ、イメージを具象化させる、禁忌の装置。
 
 かつては一家に一台以上存在したそれも、今やここにしか残っていない。
 
 その玉座の傍に、男が立っていた。
 
 正面に対するアルが、口を開く。
 
「私たち、上手くやっていけると思ってた。けど、もうお終いね」

「さて、そうか?」

 アルの敵対。
 
 それは男が最も恐れていた事態のはずだ。
 
 しかし、「なぜだ?」とうそぶく男の態度には余裕が感じられる。

「アル、何を怒っている?」

「何ですって? あなた、自分が何をしたのか、わかっていないの!?」

「ほう、俺が何をしたというんだ?」

「何って――あなたはアズを!」

 にやにやといやらしい笑みを浮かべる男に、アルが激高する。
 
 その叫びを聞いた瞬間、男の笑みがさらに深くなった。
 
「アズ、か。それは、彼女のことか?」

 男はそう言って、王座の後ろを手で示す。
 
 そして、そこから、一人の少女が姿を見せた。

 見慣れた姿。
 
 見知った表情。
 
 微妙にアルの正面を外して直視する視線も、何一つとして変わらない。

 そこに立っていたのは、アルが看取ったばかりの少女、アズールだった。

「アズ……」
 
「どうしたの、アル。そんなに怒って」

「っ!」

 アルはアズールから視線を外し、男を睨みつける。
 
「どういうつもり?」

「見ての通りだ。彼女は生きている。
 これで、君が怒ることはない。そうだろ?」

「……アズは、死んだわ」

「確かに死んだ。だがそんな事象は無意味だ。
 俺の力を以ってすれば、再び命を与えることなど容易いこと。
 お前は、失ったものを取り戻した」

「……それが、本当にアズだと言うの?」

「あぁ、そうだ。神である俺がそう言うのだから、それは間違いない」

「そう……」

 静かに呟き、目を伏せたアルが、ゆっくりとアズールへと歩み寄る。

 アズールの目の前で足を止めて、顔を上げた。
 
 その顔には、泣き笑いのような表情が浮かんでいて。
 
「そうだったら、良かったのにね」

 「ごめんなさい」と呟きざま、アルの瞳が赤く輝く。
 
 血を固めて光に透かしたような、暮紅色の視線に射抜かれた瞬間、アズールは体を震わせて崩れ落ちた。
 
 倒れかかってきた体を、アルが受け止める。
 
 その体に宿っていた命は、失われてしまっていた。

「馬鹿な……」

 驚愕も露に声を漏らす男。

 冷たい声で、アルは宣告する。
 
「それでも、偽者よ。彼女は」

「なぜだ? なぜ気に入らない!? 何が気に入らない!?
 全て同じだ! 顔も体も、その中身も、細胞の一片さえ!
 その癖も、思考も、全てだ!
 それがなぜ――なぜ不満だ!
 本人より本人らしいのに、なぜ受け入れられない!?
 喪ったものを取り戻したのに、なぜ!?
 どうして、俺は――!」
 
 言葉の後半はもはや、アルに向けた言葉では無かった。
 
 悲痛な声で問いかけた先は――きっと自分自身。
 
「簡単なことよ、神様」

 相変わらず、その言葉には敬意の欠片も無く。

 そんなこともわからないのかと、瞳に哀れみの色すら浮かべて、静かにアルが答える。
 
 腕に、アズールを模した命の残骸を抱いて。
 
「動かなくなるのよ。
 さっきまで温かかったのに、腕の中で冷たくなるの。
 私の腕の中で、アズは死んだのよ。
 どうしようもなく、もういなくなったの。
 だから、どれだけ似ていても――本人と同じだろうと、それは余りに似すぎた不気味な偽者なのよ」
 
 「そんなこと、あなただってわかっていたでしょう?」と、そう言ったアルが靴の踵で軽く床を叩いた。
 
 それだけで、床は砂のように微塵に砕け散り、神とアルはいくつもの階層を抜けて城の地下まで落ちる。
 
 無様に墜落などするはずもなく、二人は天空島の最下層へと降り立つ。
 
 そこは、墓地だった。
 
「こ、ここは――どこだ?」

 男が、あからさまにうろたえた声を出す。
 
 この城は、自分が作ったものだ。
 
 知らない場所など、ありはしないはずだ。
 
 それなのに、と。
 
「何を言っているの、神様。
 知ってるでしょう、あなたは。
 知っているはずよ?
 都合よく忘れているなんて許さないわ」


 冷笑を浮かべたアルが、彼女自身に与えられた能力を発動させる。
 
 絶対なる神の力を無効にするという、彼女の力を。
 
「ここはゴミ箱――あなたが私に『何を』捨てさせていたのか、思い出しなさい」

 アルがアズールの死体を投げ捨てる。
 
 弧を描いた躯は、よく似た顔をした無数の屍の山に積み重なる。
 
 数年の時の隔たりが無くなれば、きっと同じ顔になるだろう、そんな良く似た顔。
 
 それは、神の力を得た一人の人間の望みの成れの果て。
 
 真新しい死体は、その手にしっかりと、血に濡れたひまわりの絵を握り締めていた。
 
「死んだマホを生き返らせたくて、世界を創り直して、それでも結局創ったものを受け入れられなくて!
 自分の感じた違和感のままに、不完全カタホなんて名前をつけた!」

「う……あ――あぁぁぁぁぁあぁっ!!」
 
 記憶を解き放たれて、神ならぬ人の心が悲鳴を上げる。
 
 亡くしたものを取り戻そうとして、得たはずのものは何かが違った。
 
 同じであるはずなのに、それをそれだと認められなくて。
 
 それでもいつかと、繰り返し繰り返し。
 
 創っては壊して、壊しては創って。
 
 永き繰り返しに人でしかない心が磨耗して。
 
 だから自分自身に魔法をかけた。

 創りとりもどした娘が、失敗作だったとき、その存在を都合よく忘れるように。
 
 マホはまだ完成していなかった。未完成のカタホだったのだと。
 
「あなたの思う娘の形に添わなければ違うと言う。
 それなら、あなたはどんな子だったら満足したの?
 どんな子が欲しかったの?
 いくら本人と同じに創っても、あなたに反抗することもあるでしょう?
 生きていれば成長する、変化だってする!
 あなたはそれさえも受け入れられない、それなら――!
 もう、あなたが望んでいるのはあなたの娘じゃない。
 あなたが思う通りに生きる、娘の形をした人形よ」
 
 「だからあなたは」と、酷薄に。
 
 ひとを見下して天使が告げる。
 
 心を抉って魂を殺すような、致命的な一言を。
 
「マホではないと感じた娘を、もう一人の娘として愛せなかった時点で、父親失格なのよ!」

「黙れ、黙れ、黙れぇぇぇぇぇ!!!」

 神が激昂し、吼える。
 
 あるはずないと否定して、けれどどこか否定し切れなくて。
 
 行き場の無い感情だけが、力を伴って発散される。
 
 何の目的も与えられていない力が荒れ狂い、無数の死体を引き裂く。
 
 力の波に乗って血と肉が飛び交う中、アルはわずかも怯まず言葉を繋ぐ。

「いつか、私が好きになる人は、アズに似ているかもしれない。
 けれど、私はちゃんと、アズじゃないその子のことを好きになる。
 過去は、取り戻せないものだから――だから、私は役目を果たして未来さきへ行く!
 神様ごっこは、これでお終いよ!」
 
「お前が――終わらせると言うのか。
 終わるものか、俺は、あの子ともう一度――!
 終わりなど――終わりなど無い! 俺が認めない!」
 
 叫びに呼応して膨れ上がる神の膨大な力。
 
 今更止まれない。止まらない。
 
 イメージをそのまま現実に変える世界の原初公式――想造理論。
 
 神に至ったと錯覚した人々が争い、全てが滅んだ世界で、偶然にただ一人生き残った。
 
 世界の終わりを受け入れられない大切なものがあって。
 
 取り戻すために神になった。

 それでも、過去の喪失を現在では取り戻せなくて。
 
 だからいつかはと未来に賭けた。
 
 全能の力を持ちながら、愚かしく。
 
 神の力を手に入れたがために諦められず、いっそ人のように。
 
 望みを、光を得るためにただ足掻く。
 
 そこへ手が届くまで、願いの終わりなど、永遠に――訪れない。
 
「それでも終わりと言うのなら、やってみせろ! アル――アリュミファエル!」

「ええ、終わらせてあげるわ!」

 喪失を知った天使が軽やかに飛ぶ。
 
 アズールを奪われた痛みを、心壊れた人に教えるために。

 力の奔流に負けず、白く広がる翼は七対十四枚。
 
 光の粉を散らす、長く伸ばした髪は金。

 蒼穹の少女の死を嘆いた瞳は、翠玉から血の如き暮紅へと色を変えた。
 
 世界創世のときから唯一神の隣に控えていた最高位の天使にして、神殺しの宿命を背負う者。
 
 彼方を光で照らすアリュミファエル

 絶対となった神が道を違えたとき、神を殺すという彼女の役割を、今――

「私は、この閉じた世界の涯てを越えて征く!」

 世界の頂点で、二つの力が激突した。

 西の地平へと陽は沈み、その残照が空を黄昏の色に染め上げる。

 炎のような茜色の空に浮かぶ雲の縁が、金色に輝いて見えた。

 空を飛び、宇宙そらさえ駆けた人々は、しかし再び、空を見上げることしか知らない。

 何年も、何十年も、どんな天気でも変わらず、どんな嵐にも揺れず、そこにあった雲が赤く染まる。
 
 綿が血を吸うように真っ赤になった雲は、やがて真っ赤な雨を降らせ始めた。
 
 赤い雨は大地に降り注ぎ、そして、全てを赤く塗りつぶしていった。
 
 
 
 
 
 永い永い時間――凍てついていたかのように同じ場所に存在し続けていた巨大な雲が、消えてゆく。
 
 轟々と渦巻く風に吹き散らされて、神の居城を包んでいた白き壁が消えてゆく。
 
 そして、その向こうに姿を見せるのは、雲海の遥か下、海へと沈み行く太陽。
 
 天上へはその残光は届かず、濡れるような黒に星々が輝く。
 
 儚い光の差し込む、総ガラスの壁を持つ部屋。
 
 その部屋に置かれた、夕暮れと同じ色の大きな鏡。
 
 ノル――ノルニル。
 
 過去現在未来。
 
 時の先を見せる、時の女神の名前を持つ鏡。
 
 ノルニルは映す。
 
 白き結界を砕き、広大な空へと飛び立つ一人の少女を。
 
 神の血が呪うように黒く染めた翼は、右の翼が二枚欠けた不対象。
 
 背中を映す鏡像がぐにゃりと歪み、鏡の中で時を進めた。
 
 黒いドレスに身を包んだ背中に、翠玉と銀糸が飾る金髪が揺れる。
 
 アリュミファエルの傍らには、一人の少女の姿があった。
 
 二つに結んだ長い黒髪。
 
 白と緋の装束。
 
 黒の裡に蒼を秘めた瞳が、笑みを湛えて彼女を見る。
 
『――アリューカ』

 未だ生まれぬ彼女の声が、無人の城に響く。

 二人が出会うのは、気が遠くなるような、永き時の断崖を越えた先。

 だが、今は遠くとも、やがてたどり着く。
 
 ここまでだと定めた世界の涯てを、飛び越える翼があるのだから――

<ノート>

お題企画小説
テーマ【翼】【甘々】【料理】

<おまけ>

作品として
プロット組んでたら割としっくり来たので、まさかの前作スピンオフ。
料理のお題を変な意味で処理して書いた。
こっちの意味で使うと意表を衝けるんじゃないだろうかと。被ったら笑う。
やっぱり雰囲気で読むのが正解な話ながらも、今回は会話の難易度が大幅低下。

蒼き空は暮紅くれないに落ちる
今回のタイトル。
シンプルに内容を表現してみた。
ついでに、碧落(=世界の果て)とも掛けてみたり。
暮紅は造語。日が沈む直前の、暗めの夕焼けの赤色という意味。


創造神にして絶対神。
この世の全ての者の父。
早くに妻を事故で喪い、遺された一人娘を溺愛していた。
世界が想造兵器戦争で滅び去った後、彼だけが生き残っていた。
その後、想造兵器を使って世界を作り直した、ぶっちゃけただの人。
そのせいか、物凄い力を持っているくせに、物凄い小物っぽい性格。
世界を再生する際、自分が悪者っぽく暴走してしまったときのために、自分を滅ぼせる唯一の存在たるアリュミファエルを生み出した。
なのだが、彼女のことが怖くなって必死に飼い殺しにしようとしている。
常にアリュミファエルのご機嫌を伺っている。
本名は不明だが、日本人。
長い時間の経過と孤独で精神は磨耗し、どこか壊れている。
キャラクタのコンセプトとしては「人間」。
色々なものの名前を省略する癖がある。

マホ(真穂)
神となった男が溺愛していた娘、想造兵器戦争で死亡。
神の力によって、蘇らされる。
黒髪黒瞳の可愛らしい少女。
名前の由来は「完全」を意味する真秀まほから。
後半のマホは前半のマホと別人。
色々とリセットされたので台詞はひらがなオンリーにしてみた。

カタホ(片穂)
マホの出来損ない。
名前の由来は「不完全」を意味する片秀から。

アズ(アズール)
綴りはAZURE。意味は蒼穹。
実は自称。
実際の発音とはちょっと違うけど、名前っぽくするためにアズール。
灰白色の瞳と長い黒髪。
逃げ出したカタホの一人。
一度死に掛けた際に視力をほとんど失い、黒い瞳が灰色になった。
彼女の視力は目の色の薄さと比例している。
性格は、あえて碧とは似せていない。

アル(アリュミファエル)
光と導きを象徴する天使。
創者たる神が道を違えたときの保険として生み出され、神の扱う想造魔法に対抗する力を持っている。
万物の父である創造神を唯一殺しうる力を持っている。
見た目は幼いが、成長しないまま永い時間を生きている。
ただし、神がどこまでも甘やかすので、ナチュラルに偉そう。
白い翼を持っていたが、神を殺したときの返り血で翼は黒く染まってしまった。
後に堕天使アリューカと名乗るようになる。
アリューカの意味は『彼方にて深淵に沈む光』。

ノル(ノルニル)
夕焼け色の不思議な鏡。
過去現在未来の全てを映すことができる。
条件付けをして未来を見ることも可能(~をした場合どうなるか、みたいな)。
名前は北欧神話の時の女神姉妹からだが、モチーフ自体は白雪姫に出てくる鏡。
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