ハワイ諸島に人々が移り住み始めたのは、5世紀から6世紀頃と言われています。
一時期、タヒチとハワイの間ではカヌーによる交易もありましたが、18世紀にジェームス・クック(キャプテン・クック)がハワイにやって来るまでの長い間、ハワイは他の国々との交流が無く、完全に孤立した島でした。
ジェームス・クックの船には沢山のハワイの人々が押し寄せました。その中に、後にハワイ最初の統一大王となる若き日のカメハメハがいました。
カメハメハはその後、西洋の最新式の兵器と近代的な戦法で次々と敵を倒し、1795年にハワイ王朝の樹立を宣言するのでした。
カメハメハが近代兵器を手に入れる見返りとして差し出したのが、ビャクダン(白檀)です。
当時、ハワイの山には沢山のビャクダンの木が生えていました。
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ビャクダンは中国で高く取引されていたため、西洋人たちは武器と引き換えに手に入れたビャクダンを中国で売って、利益を得ていました。
ビャクダン貿易はカメハメハ王朝の独占だったため、王朝の力は次第に増大し、100年続く王朝の礎を築いたのでした。
しかし1830年頃になると、乱獲の影響でハワイの山からビャクダンが殆ど無くなってしまうのでした。
ジェームス・クックの発見により、ハワイの存在が西洋社会に広まると多くの国々の船がハワイにやってきました。
ちょうど太平洋のど真ん中に位置するハワイ諸島は、長い航海をする船の中継地点となったのです。
そんな中、マウイ島のラハイナが捕鯨基地として繁栄を極めるのです。鯨の肉は食用として、脂はランプの燃料として使われました。
この頃、キリスト教宣教師団が持ち込んだ、コーヒーの苗木がハワイに根付き、徐々にコーヒー栽培がはじまりました。
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1850年に外国人による土地所有が認められると、多くの白人達がハワイの土地を買いあさり、広大な土地でサトウキビ栽培を始めました。
その後、アメリカ本土で南北戦争が勃発すると、南部産のサトウキビの代わりにハワイ産のサトウキビの需要が北部で高まりました。
労働人口が不足していたハワイは世界各国から移民を受け入れたのです。
1868年(明治元年)には最初の農業移民として152名の日本人がハワイに渡りサトウキビ生産に従事しました。
その後、パイナップル産業も興り、1930年頃には世界のパイナップル缶詰の80%以上を生産するまでになりました。
しかし、人件費の高騰などにより、次第に農産業の競争力が弱まり、経営が立ち行かなくなる農場が増え始めました。
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パールハーバー(真珠湾)をアメリカ軍に使わせたことにより、軍需産業が興りました。
決定的となったのは第二次世界大戦が勃発してからです。
多くの軍人がハワイに駐在し、ホノルルは軍需産業により発展するのです。
軍人のために宿泊施設や歓楽街が生まれました。
そして大戦後の1959年に、ハワイがアメリカ合衆国50番目の州となり、1961年公開の映画「ブルーハワイ」により、アメリカ本土でハワイブームが巻き起こります。
日本でも ♪はーれた空〜そーよぐ風〜♪ で有名な「憧れのハワイ航路」がヒットし、1964年の海外旅行の自由化の年には3万5000人の日本人観光客がハワイを訪れました。そしてハワイは観光の島になったのです。
現在のハワイは観光業と軍事基地としての収入で成り立っています。
特に日本人観光客は欧米人観光客より多くの出費をしますので、ハワイ政府としては沢山の日本人観光客に来てほしいのです。
でも私たちロングステイヤーは出来るだけ、安く経済的にハワイ生活を楽しみたい訳で、
日本人観光客とはちょっと違う滞在になりそうですね。
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